プロフィール(使命の物語)

はじめまして!
「真面目で、面倒見のいい人だなあ」といわれる、
川口市で、タタミ屋を経営している新関博です。

朝から晩まで、黙々と、まじめに、コツコツ仕事する
父の後ろ姿を見て育ってきました。

顔なじみのお客さんの所に何回も通い、よろこばれる姿
を見て「親父、いい仕事してるなぁ」と感じていました。

そんな父を見習い、「こちらのことをわかってくれるので、
ありがたい」と言われるようにお客さんの気持ちを受け止め
て行きたいと思います。

なぜ私が【信じる】を使命に掲げるのか?そのわけを
聴いていただけますか?

「一緒に、畳入れに行くか?」

昭和30年代、私が住んでいる川口市や母の実家があった浦和には、田んぼが当たり一面にありました。そんな田園風景の中で、山遊びや川遊びをして育ちました。

私の父は、二代目の畳屋。田んぼから出る藁で畳の下地を作っていました。藁を機械に入れて下地作りをするのは、母の仕事。下地から畳を仕上げて、トラックで運ぶのが、父の仕事。

朝から晩まで、父も母も仕事場。一生懸命で、一日仕事で忙しい毎日。
「お父ちゃんもお母ちゃんも大変だなぁ。」と思っていました。

学校から帰ると、家で出迎えてくれるのは、おじいちゃんとおばあちゃん。「おなかすいたかあ?」といって、おばあちゃんが、味噌をつけたおにぎりや畑で採ったきゅうりを食べさせてくれるのが、楽しみでした。おばあちゃんは、裁縫をしながら、勉強の相談相手にもなってくれました。

 

 

 

 

 

 

父は、トラックに畳を積んで、千葉の外房の方に行くとき、一緒に連れていってくれました。

「一緒に、畳入れに行くか?」

そう声をかけて連れて行ってくれることが、とてもうれしかったです。中々父と一緒にいることがないので、ちょっとした旅行気分でした。

夕食のときには、父と母も仕事から帰ってきます。お勝手に大きめのちゃぶ台を置いて、家族みんなで一緒に、ワイワイ言いながら、ご飯を食べます。気兼ねなく話せて、一日で一番楽しい時間です。

夜は、両親と兄弟三人で川の字になって
寝ると、安心してぐっすり寝ることが
できました。

「将来博士になれるから、博とつけたんだよ」

私は、3歳年上の兄と3歳年下の弟の3人兄弟。

兄は、小さいときから頭が良く、いつも一生懸命勉強していました。中学に入ったとき、先生から「おまえの兄さんは、偉かった」といわれ、すごいなぁと思いました。

いつも、兄の跡を追いかけて、兄の真似をしていました。

兄がフルートをやるといえば、わたしもフルートをやる。兄がスキーをやるといえば、わたしもスキーをやる。

そんな兄の影響で、中学では、兄が所属していた化学部に入りました。化学部ではいろんな実験をし、将来、研究者になりたいなあ、と思っていました。兄がよく読んでいた、エジソン、アインシュタイン、野口英世の本を読んで、努力して大成する姿に、あこがれていたのです。

そして、努力すれば、自分も「兄のようになれる」という想いで、夢中になって、科学者の本を読んでいました。。そんな私の気持ちを知ってか、いつも味方になって励ましてくれていた、おばあちゃんから、このようにいわれたものです。

「おまえは、将来博士になれるから、博とつけたんだよ」

おばあちゃんからそういわれると、
とてもうれしかったのです。
「おれのこと、信頼してくれている」

 

 

「自分が逃げていただけだった…」

有名私立高校に進学した兄を跡を追うように、わたしも希望の私立高校を受験しました。

ところが、第一志望の私立高校は落ちてしまいました。地元の公立高校に入りましたが、落ちたことを引きずっていました。

さらに、希望して入ったブラスバンド部。1年の夏合宿が終わると、母から「やめなさい」と言われ、渋々退部しました。

それからというもの、学校に馴染めず、親しい友だちもできませんでした。学校が終わるとまっすぐ家に帰って、部屋で音楽を聴くという生活。

それが、高校3年の最後の学園祭でのことです。クラスで、セサミストリートの人形劇をやることになりました。

小さい頃から、物を作ることが好きだったので、人形を作りました。それがクラスの人に、えらく感心されたのです。
「新関、おまえ、すごいなぁ!」

この出来事をキッカケに、学園祭を楽しくすごすことができました。

そのとき、やっと気がついたのです。高校を落ちたことを引きずり、「自分が人との関係から逃げていただけたった」と。

そのことに気がついてから、自分から人の輪の中に入るようにしました。話ができる、親しい友だちもできました。

そして、思ったのです。

「自分なりにしか生きることはできない。
自分を信じて、
自分ができることをやっていこう!」

 

 

「継いでくれないか?」

大学は、あこがれの兄の跡を追うように、研究者になるべく工業化学科を専攻しました。
「自分を信じて自分なりに生きればいい」と思えるようになったので、楽しい大学生活を送っていました。

そんな大学生活が一変する出来事がありました。

大学2年のときに、兄が登山の最中に遭難して亡くなりました。
私は、目の前が真っ暗になり、目指すものが消えてしまったかのように、ぼう然としました。

道の先がなくなった。想い描いていた理想の未来がなくなった。ポッカリ、穴が空いた状態でした。

目標がなくなったまま就職活動に入り、
就職難ということもあり、面接を受けた
会社、すべて落ちてしまいました。

 

 

就職先が決まらず困っていると、父からこのように言われました。
「畳屋、継いでくれないか?」

今まで、兄のような研究者になろうと思っていたので、畳屋を継ぐという意識がまったくありませんでした。しかも、多くの人は、早くから見習いに出て学んでいるのに、22歳になって一からの丁稚奉公に不安がありました。 「おれにできるのかな……やっていけるのかな…」

結局、悩んだ末、「このまま会社がなくなったらもったいないな」と思い、やむなく畳屋を継ぐことにしました。

「おれが継ぐしかないんだよな…」

「もっと話をしたかったのに…」

自分の家で、父と一緒に働くといると、畳屋を継ぐというより、雇われている感覚でした。「おやじがなんとかしてくれるだろう」という気持ちで、正直居心地がよかったのです。

ところが、心の奥底では、「自分で決めた道ではない。本当にこれでいいの?」という想いが強くあったのです。

そのため、やっていたことといえば、父に言われたまんま、畳を作り、お客さんに畳を納めること。

そのような日々を過ごし、47歳まできました。そんなある日、父がガンで入院することになったのです。

「しっかりしなきゃいけない」と思いつつ、それまで、会社の方針は「親父が決めるものだ」「親父が仕事を持ってくるものだ」という意識でいました。

これからどうする?
どこを回ればいい?

あたふたするばかりでした。

父からは、「おまえがやれ!」と言われ、父のやり方を教えてもらったことはありました。父は、顔なじみのところに年5回も顔を出していました。私が突然行くと、「ああ、そうなの?」と言われて、営業が苦手になっていました。

本当は、もっと前からやらなければならなかったのに、40歳過ぎても、なにもやらなかった。

そのうちに、3年経過すると、父の病状はさらに悪化。結果、末期状態になり、ホスピスに転院せざるをえなくなりました。

ガンが転移して、「痛い…痛い…」と言うばかり。

「もっと話をしたかったのに」

仕事のことは?
会社をどうしたいのか?
親父が建てた家はどうしたいのか?

本質のことは、なにも話をして来なかったのです。
父の気持ちもなにも受け止めて来なかったのです。

畳の仕事も昔から比べると激減して、やめるお店もある中、「このまま、畳屋をやっていていいのか?」悩みました。

なにより、

「おまえがやらなきゃ、この会社はうまく行かないんだよ」

そう、父に背中を押して欲しかったのです。

ところが、「こんなこと言ったら、親父がなんと言うだろう…」と、びくびくしていたのです。

結果、動けない、動かない、という甘えがありました。「やりたくて始めたんじゃない」という逃げの気持ちがあったのです。

私が50歳のときの元旦、父は退院して、久しぶりに家族みんなで正月を迎えました。父も、久しぶりの家族のもとで、穏やかな顔つきで、楽しそうな感じでした。

ところが、
1月3日に、体調がわるくなり再度入院。
1月6日に、父は亡くなりました。

 

 

「信じる」ことを使命と掲げるわけ

父が亡くなってみて、初めて気づきました。人に言われたまんまで、仕方なしに生きる。人に頼って、自分で考え自分で行動することをあきらめていたのです。

そのことを、恥ずかしながら、50歳になってやっと気がついたのです。

高校時代、母に言われて、ブラスバンド部を辞める。
父に言われ、仕方なしに、畳屋になる。
父に否定されると、自分なりのやり方をあきらめる。

まわりの言葉を気にして、びくびく生きている。一番大切な自分自身を信じてあげていない。

そう、自分を信じることが足りない。だから、悩んでも、なにも行動できない。まわりの言葉ばかり気にして、自分の気持ちを大事にしていない。

今度こそ、自分が信じた道を行かないと後悔する。
そんな強い想いから、私は、自分の使命を【信じる】ことと掲げることにしました。

後悔しないように、自分が信じて決めたことをすべてやろう。
そうかたく心に誓いました。

それからです。
「自分はどうするのが一番いいのか?」本気で考え抜きました。

「まず、外に出て勉強しよう!」と決めて、外部の勉強会や交流会に積極的に参加しました。
すると、気の合う仲間が増えて、気持ちが、吹っ切れてきました。

気持ちが前向きになり行動できるようになると、少しずつ自分のことを信じられるようになるのです。

そうすると、不思議なことに、お客さんとの関係にも、変化があらわれたのです。

いままでは、お客さんにいわれるまま、畳を替えていました。
ところが、お客さんの気持ちに耳を傾け、お客さんとやり取りするようになると、気持ちが変化していったのです。

「もっとよろこんでもらいたい。」

「もっとよろこばれる仕事をしたい。」

このような気持ちで仕事をするようになり、お客さんからいわれる言葉も変わったのです。

「気持ちよく過ごせるし、気持ちよくご飯を食べられる。
人が来ても恥ずかしくない。」

「丁寧に、しかもこちらのことをよくわかってくれてやってくれるので、
とても気持ちよく生活できています。」

「自分たちで決めると地味になるところを、ひと言アドバイスいただき、
とても気持ちのいい部屋になりました。」

ある三世代で暮らす親御さんが亡くなられた後に、ご家族の方からこんな要望を言われました。
「こういうときだから、みんなが集まれる部屋にしたい。」

私が小さなとき、
おじいちゃん、おばあちゃん
父母、そして兄弟と
みんなで、ちゃぶ台を囲んで食事したことを思い出しました。

そこで、家族のだれかが帰ってきたときに、人が集まりやすい居心地のよい部屋を作りました。おやつやみかんなどを食べならがら、団らんできる工夫をしました。

お客さんは、その畳の部屋を、すごくよろこんでくれたのです。

「みんなが集まって話ができるねぇ。」

みんなが集まって楽しく生活していただくことが、私のなによりのよろこびです。

「気楽に頼める人がいいなあ。」

「安心してお願いできる人がいいなあ。」

「こちらの要望を丁寧に聴いてくれる人がいいなあ。」

そんなお気持ちでいる方のために、これからも一層、
「真面目で、面倒見のいい人だなあ」といわれるように、努めていきます。

最後になりますが、

親父、天国から、
「おまえもやるじゃねえか!」
と声をかけてくれたら、うれしいです。

 

 

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